感染症と日本の歴史

こんにちは、今月のコラムを担当します斎藤と梅川です。今回は日本の感染症の歴史を大まかに振り返ることで、新たな発見や心構えの足がかりになればと思い、執筆しました。何かのお役に立てれば嬉しく思います。
感染症と日本の歴史
最初の緊急事態宣言から、早くも1年が経ちました(2020年4月7日~同年5月7日まで)。
変わらず不自由を強いられている方もおられれば、新しい生活に順応されている方もおられるかと思います。

このような事態は人生の中で起きるのは1度あるかないかとは思いますが、長い人類の歴史の中では、同じ様なことが過去に起こったことはなかったのでしょうか。

結論から言わせていただくと、NOであります。
むしろ人類の歩みは感染症と共にあった、と言えるくらいです。


日本の感染症の歴史


日本における最初の疫病の大流行は、崇神天皇の時代(紀元前148~紀元前30年)と言われています。
崇神天皇は、学術上、実在の可能性が極めて高い最初の天皇です。
それ以前から疫病があったと伝えられてはいますが、伝承が曖昧なために確証がありません。
言い換えれば日本の確固たる歴史が判明した頃から、すでに疫病があったということになります。

疫病で多くの国民が失われ、崇神天皇はそれを治める為、天照大神を倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の殿内に祀るのをやめて外部へ祀ることにしました。
これが後の伊勢神宮の誕生に繋がります。
現在も天皇陛下の公務の一つに、国民の平和を祈ることが含まれていますが、それもこの時代に生まれたものなのです。


西暦4~5世紀


その後、大陸との交流が盛んになった西暦4~5世紀からは天然痘が猛威を振るい、特に735年から738年にかけての天平の大疫病では、100~150万人(当時の総人口の3割強)の犠牲者が出たという研究結果があります。
またこの頃は干ばつや地震、地方での反乱が相次ぎ、非常に社会が不安定な時代でした。
このような人智を超越した困難を乗り越えるため、当時の聖武天皇は仏教の力を頼りました。
これにより752年に建立されたのが東大寺盧舎那仏像、奈良の大仏様なのです。


平安時代


平安時代に入っても天然痘の流行は定期的にやってきます。
しかしそれだけではなく、はしか(麻疹)も同じく流行するようになりました。

はしかは天然痘よりも感染力が強く、そして致死率も高かったため、『疱瘡(天然痘)は器量定め、はしかは命定め』と言われていました。
子どもが天然痘やはしかを乗り切り、7つを迎えられたことを祝うことが、七五三のお祝いということになります。
今は小学生に上がったことをお祝いする、当たり前の行事となりつつありますが、当時は7歳になるだけでも大事だったということなのですね。


鎌倉時代


鎌倉時代や安土桃山時代にも同じ様に、天然痘やはしかの流行に人々は脅かされます。
特にはしかは20~50年周期でこれらは流行するのですが、これは病気の性質上、一度免疫を持った人は罹らないので、免疫を持った人が過半数を占めれば、当然感染率がどんどん下がっていきます。
そして免疫を持たない世代が多くなった時代に、また流行する。
それを繰り返してきました。


江戸時代


しかし江戸時代に入ると、はしかの流行はあるものの、徐々にその致死率が下がっていきます。
床を張った家屋が主流となり、玄関で下足を脱いで部屋に入る習慣が根付くことで、衛生面が格段に向上したからです。
今回の新型コロナでも、日本人は靴を脱いで家に上がるから、欧米の国に比べて感染者が少ないのだという意見が見受けられました。
それをどこまで真に受けていいのかは分かりませんが、少なくとも感染症に対しては、衛生面を保つ・強化することが大事であることは間違いないと思います。
清潔好きの日本人ならでは、ですね。

そんな江戸時代には多くの「かぜ」が流行しました。
ここで言われる「かぜ」の多くは、今で言うインフルエンザであった可能性が高いと言われています。
この時代に流行った「かぜ」の多くは、西の方から徐々に江戸に向かっていった形跡が多く見られます。
「かぜ」は寒い時期にかかりやすい病気なので、印象としては寒い地域から広がり、徐々に南下していくものだと思いがちですが、当時の日本は鎖国をしていました。
そんな中で外国船を受け入れ、取引していたのが長崎です。
長崎で水揚げされたものは商人に買い取られ、それが全国へと渡っていきます。
また船員が旅の疲れを癒したり、体調が悪ければ治療を受けたりもします。
キリスト教の宣教師もいましたから、布教のために街から街へと移動もします。
こうして感染症は人や物の流通とともに、江戸を目指すようになったというわけです。

ちなみに江戸時代では流行り唄や流行語が生まれた時代でもありました。
それまでは舞や唄も位の高い人の娯楽でしたが、これらも江戸時代では庶民の娯楽の一つとなり親しまれました。
流行は人の口から口へ移って行くもの、それは歌も病気も同じだったのでしょう。
なぜなら当時の流行したものをもじったものが病名となっていたからです。
例えを挙げると「安永のお世話風」「文化のだんほう風」「お駒風」「谷風」「お七風」「あんぽん風」等など。
詳しい解説は割愛しますが、これらは全て流行の歌や歌舞伎の演目、人気のあった力士の名前から取られています。
2020年に流行した新型コロナウイルスも、時代が時代であれば「鬼滅風」と言われていたのかもしれませんね。


江戸時代末期


そして江戸時代の末期にはコレラが蔓延。
これも外国船から人や物と一緒に上陸し、大阪や京都、江戸にも広がって行き、多くの犠牲者を出すことになります。
1853~1860年にはペリーらが来航し、江戸幕府に開国を要求。
黒船騒動が起こります。
当時伝え聞く話では、欧米列強が強力な軍備を持ってやって来て、次から次へと国を攻め落とし、領土を拡大していくとのこと。
日本も同じ様な目に遭わされるのではないか、コレラ(罹ると短時間で亡くなる為、コロリとも言われた)のような恐ろしい病気も振りまいていく。
そんな相手と弱腰で応対している幕府はもうアテにならない、今こそ天皇に政権を戻そう、という運動が活発になります。
それが尊皇攘夷となり、紆余曲折あって250年続いた江戸幕府が幕を閉じ、明治維新へと突き進みます。
日本人には黒船の大砲が当然怖かったのですが、実は一緒にやってくるコレラの方が、より多くの人の命を奪ったのです。


明治・大正時代


明治を経て大正時代に入ると、西洋の文化が日常にも取り入れられるようになり、海外との交流がさらに活発になります。
それだけでなく、受け入れる一辺倒であった日本が、積極的に海外に進出し始めたのもこの頃でした。

日本はシベリア出兵を行うなどし、第一次世界大戦に関わりを持ちます。
それはスペイン風邪を受け入れることも意味していました。
ヨーロッパを中心に広がったこの疫病は、同盟国、敵国を問わずに感染者を増やしていきました。
どの国も戦線を維持することさえ難しいほどになり、戦争終結の契機へとなったと言われています。
日本では大正7年5月から9年の5月までの間、合計3回の流行(第三波)がありました。
そしてこの頃から日本では外に出る時はマスクを着用し、できるだけ人混みを避ける、うがい・手洗いをこまめにするといった、現代に通ずる感染対策を奨励していたのです。
が、残念なことに本格的な選挙が始まった時代でもあるためか、国民への人気取りや責任を負いたくないという意識の表れが見え隠れし、外出禁止や催し物の中止などの要請を、先の時代のように強く発することができなかったとのこと。
弱腰の対応は今に始まったわけではないのですね。


昭和・平成


昭和に入るとマラリアやデング熱、赤痢といった疫病が多く見られるようになりました。
日本が欧米だけではなく、アジアにも目を向けた時期と重なります。
そして平成には新型インフルエンザやSARS、MERS、鳥インフルエンザが記憶に新しく、そしてこの令和の時代に新型コロナウイルスへと続いていきます。

かなり駆け足で時代を遡ってきましたが、いかがでしたでしょうか。
疫病の大流行があったあとは、大げさではなく時代が変化します。
今回の新型コロナウイルスが落ち着いた後も、もしかすると世界が一変することがあるかもしれません。

その様な状況下で、我々は一体どうするべきでしょうか。
人間は困難に直面すると、極端な主義主張に流されやすくなったり、荒唐無稽な意見に耳を傾けやすくなる一面があるようです。
しかし今回この日本の感染症の歴史を調べていくと、他の地域の国のように100年単位で蔓延し続けるということはないように思えました。
あくまでも素人考えなので、それが的確な答えであるかはわかりませんが、斎藤と梅川個人の見解では、やはり日本人は節度と秩序を持って行動することができるから、他の地域よりも比較的被害が少ないのではないか、と思います。
難しい時代がこれからも続きますが、皆様どうぞご自愛下さい。


本社営業部 梅川 祐二
本社営業部 齋藤 和久
2021年05月07日
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